低緯度オーロラを小栗忠順も見た?!貴重なお話をいただきました!

こんにちは!中の人です!

不安定な天候が続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。

さて、広報高崎6月号にて、5月11日(土)の低緯度オーロラ観測を特集していただきました!

そしてなんと、そんな低緯度オーロラについて東善寺さまから貴重なお話と資料が!!

倉渕町は『明治国家の父の一人』と称えられ、数多くの小説や大河ドラマでも活躍する小栗忠順ゆかりの地でもあり、その名は道の駅『くらぶち小栗の里』の名前にも受け継がれています。

1860年(安政7年)、日米修好通商条約批准のために遣米使として渡米した小栗忠順は、乗っていた米艦の外輪フリゲート艦『ポーハタン号(水沼公園のサッカー場に『ポウハタンフィールド』という名前が付いているのはこれが由縁です)』の上で、サンフランシスコ到着直前に低緯度オーロラを見ていたのではないかということです。倉渕と低緯度オーロラの関係は意外なところにもあるんですね!中の人はこういうお話大好きなので、とても興味深くて貴重な資料です!

ちなみに今回の5月に観測した低緯度オーロラはサンフランシスコでも観測されたそうですよ!なんだかとっても“縁”を感じますね!

さて、頂いた資料ではいずれも『三月七日の夜八時(『航米記』では前日の夜の出来事を振り返って書いていますね)』という記述がありますね。安政7年の3月7日夜八時は、そのまま現在の西暦に置き換えると1860年3月28日午前2~4時頃のことです。当時のサンフランシスコ周辺の星空をシミュレーションしてみると、月は上弦前で前日には沈み月明かりの無い暗い空(低緯度オーロラを見るのに適した空)だったことがわかります。

※『Stellarium』より当時のサンフランシスコ周辺の星空をシミュレーション

当時の様子を小栗忠順の従者木村鉄太は『航米記』で「北方に光があり、焔のような火が見えた。海面が月夜のように明るかった(中の人ざっくり現代語訳)」と記し、『万延元年訪米日記』にて佐野鼎は「北方に月が昇る時のような明かりが一時間見えていた。(中の人ざっくり現代語訳)」と記しています。火も、月の出も赤く見える時がありますが、まさしく“赤気”といわれる低緯度オーロラの特徴とも一致します。そもそも、アメリカのサンフランシスコは日本でいう仙台あたりで、通常はオーロラの観測は出来ません。

では、本当に当時低緯度オーロラが出現したのでしょうか。

実は、太陽観測の歴史から見ても1860年は大変興味深く、1855年12月~1867年3月まで続いた第10太陽周期の中で、約97.3個という最多の黒点数を観測した年でもあります(最大は1860年2月)。また、同周期前年の1859年9月1日~2日にかけては、現在記録されている中で最大の太陽嵐による磁気嵐が発生しており、世界中でオーロラの観測がされたそうです。小栗忠順が見上げたかもしれない低緯度オーロラは1860年の出来事でしたが、黒点の数からしても太陽が活発であり、低緯度オーロラを出現させるほどのフレアと磁気嵐が発生した可能性は大いにある年です。

もしかしたら、倉渕でも当時、低緯度オーロラが見えていたかもしれませんね!

我が家にもそんな伝説がある!という方はぜひ、当館まで教えて下さいませ~!!

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